ぼくの見ている世界

Waka Kobayashi/感じたことを記録として書いていきます。

私と震災。

6/26〜7/3まで東北と関東に旅にいってきました。
その理由は文字では書ききれません。それでも思っていることを書いてみました。

この下につづく日記は今年の1月18日私が別のブログで書き留めるために、おもわず書いた日記です。
その前に少しだけ私の今の気持ちを書いておきます。

1995年の1月17日、その日は小学3年生の私が楽しみにしていた、家庭科の調理実習でドーナツづくりをする日でした。忘れないように用意したドーナツを作るエプロンをいれた袋が、薄暗い玄関で、金魚の水槽の破片が飛び散るなか、残っていたのを忘れられません。
あの一瞬私が思ったのは「今日調理実習できないんだ」と「金魚が死んでかわいそう」でした。だけど、それ以上の気持ちはどこか見えないところにずっとしまってあって、出てくることを恐れていました。
それから17年が経って、やっと私は学校に作文を書かされるんじゃなくて、自分の気持ちで被災経験を書こうと思えるようになりました。
神戸の追悼式に行こうと思えるようになりました。
被災地に行こうと思えるようになりました。

そして、東北から帰ってきて、ここのブログに載せて、多くの人にみてもらいたいと思えるようになりました。
今年の6/26の東北の旅への出発の日、私はtwitterにつぶやきました。

「2011年3月からずっと東北いきたかった。会社休んでいきたかった。でもいけなかった。関西で古着を仕分ける作業てつだった。風邪引いた。翌日上司に理由を問い詰められた。その後自分のPTSDみたいなんに気付く。今年初めて希望の灯りにいく。色んな意味で今日は私が東北に元気をもらいにいく。」

東北に元気をもらいにいく、とはどういう事なのか、わからず出発しました。
でも、あながちずれていなかったような気がしています。

気仙沼のプレハブでできた商店街でご飯食べたときのおっちゃんの話。
松島の語り部ツアーでカモメとウミネコの違いで乗客を笑かしながらも「災害時は素直が一番」と語ってくれた語り部しながらわかめを巧みに売ってたおばちゃん。
大船渡で食べたごはんやさんで偶然、お客さんとお店のおばあちゃんが震災以降再会して笑顔で「元気でよかった」と語り合っているのを聞く事ができた。
レンタカーのおっちゃんが「テレビに映ってない所がたくさんある。見てきてな!」と言った事。

そこにはテレビでわからない、においや音、風、思ったより低い気温、けむり、こんなとこ走っていいのかなって思うような工事現場に出くわした事、やっぱり百聞は一見にしかずだと思った。

阪神大震災津波が来なかったからよかったと言った人のこと。
いわき市は忘れ去られてもっとかわいそうやと言った人のこと。
神戸から来たというだけで、何かを察してくれる人のこと。
そして1泊1000円のゲストハウスに泊まってたとき、ギター弾いてた3人の兄ちゃんと、阪神の大震災の被災体験について思わず話す事になり、一人の兄ちゃんが「俺も奈良におったけど、ずっと壁が震えてるんよ!映像みたことあるかー?」と再現し始めて、私はこわくてこわくて、私の足が気付いたらおさえられないくらい震えていたこと。「一回経験してる人は意識がぜんぜん違うよな、俺も3/11に東京にいてフラッシュバック起こしたよ」と言ってくれたもう一人の尼崎出身のいかつい兄ちゃん。
整理なんてしきれない。整理なんてしなくていいのかもしれない。
だけど、そこに私は居たこと。
ああ、つながっているって思った。
だから私はここに居ていいし、おいしいご飯をたくさん食べて帰ろうって思った。

仙台から大船渡まで往復して、2日で16時間近くも運転して、限界になりながら、
ああ、この事を伝える事が私に出来る事なんだと思ったんです。

いまはとりあえず、私の過去の文章を載せることにします。
東北のことは、また今度。
私の口べたな文章を、読んでくれるみなさんありがとうございます。

いまの東北のこども達がどうやって想いを詰め込んで大きくなっていくのか、
被災者って何なのか、復興って何なのか考えてもらえたらうれしいです。

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2013年1月18日の日記より。

今日初めて三宮の「1.17」というろうそくがともしてある場所に行きました。

去年はインドへ行ったので、向き合う時間はなかったし、仕事を辞めて間もなかったから
2011年の1月17日は特に日記は書いていなかった。
facebookを見直すと、「仏さんにチンしよ☆」とだけつぶやいていた。


3.11のとき、私は東京の美術館に居て、フラッシュバックにあった。
全てを想い出し、号泣し、もうすぐ過呼吸になりそうだった。
しばらく続く余震の中、「死にたくない!」と叫びながら携帯で親の番号を探していた。
手は目で見て分かる程震えていて、立てない状態だった。
かけたら電波がつながらなくなっていた。
感覚的に震度5はあると分かった。
すぐに携帯のワンセグをつけた。津波が映っていた。
その他大勢の人と一緒に3時間かけてホテルまで歩き、靴を履いたままベッドに横になり、
布団にも入らず、すぐに逃げられるようにしようと思った。
ほとんど眠れなかった。
翌日満員の新幹線で立ったまま帰ってきた。
想像していたのとは全然ちがい、関西はいつも通りだった。
会社でその事を話すと、軽く受け流された。
1.17のとき尼崎に住んでいた同僚に話すと、すごい怖かったと言っていた。
私の3.11は、そのとき一緒に居たパートナーだけが知っている。
親に話しても「そんなにフラッシュバックになったの〜?」と驚かれたほどだった。




最近、3.11以降、何かしたいと思い続けていた。
3.11直後、服を段ボールに詰める作業をしにいって風邪をひき、上司に怒られた。
色んな友人が、一緒に東北にいこう!と声をかけてくれた。
自分で、東北にいった友達に電話をして、どうやっていけばいいか聞いたりもした。
それでも2年近くたってしまった。


先輩が1.17の活動をしていると知った。
友人は積極的に関わりたいと言っていた。
私もそう思ったけど、行動に移せなかった。



なぜだろう。
ずっと考えていたみたい。


おとつい、1/15、今年こそ神戸の追悼式とか、イベントに言ってみよう。
新聞の記事を見て決意した。
でも昨日、その決意はゆらいだ。

しんどい。

そこに行けば、絶対に泣いてしまう。
そんな想いをしてまで行く必要があるのか。


そして、1/17今日、気付いた。
たまたま用事がなくなって、午後から三宮のろうそくを見にいけそうだった。
行こうか、思ったときに気付いた。

そうか、私は今まで泣いてこなかったんだと。
昨日の晩、母に聞いたら「震災のとき、けろっとしてたよ〜」と言っていた。



思い出すもの。
体育館で「こわい〜!」と言って余震が来るたびに布団に包まる友達と私。
「大丈夫大丈夫〜」となだめてくれる大人達。
それから体育館の避難生活のあと、通っていた幼稚園に移り、その間に親が
家を片付けてくれていた。
震災直後、思い出す光景。
それ以外は、学校のプレハブ。夏は暑いけど、特別メニューでチーズケーキが出たりして、それなりに楽しかった。
地滑り記念館にいき、同級生の家族全員が無くなった所で黙祷したこと。
そこで友達が泣いていた事。
しばらくして、震災の作文をかかなければならなかったこと。
いつの間にか家の前の坂が、ぼっこぼこに割れておっこちそうだったのが、平になっていたこと。

それから1年間アメリカにいき、帰ってきたら学校の校舎が新しくなっていて、
新しいイスを運び入れる作業をしにいったこと。
もうみんな震災の事は話さなかった。
それから話す事は無かった。

テレビで防災訓練の映像が流れたり、再現VTRで揺れる画面が出るたびにチャンネルを変えた。
見ていると、自分の床が揺れているような感じになる。


私は震災のことで泣いた事がなかった。
2011.3.11、東京で被災するまで。
そのときふたをしていた過去が、全て溢れ出したみたいだった。


今日、行ってみると意外と大丈夫だと思った。
ろうそくに火をつけ、写真をとり、人々を眺めた。
メッセージを書くスペースにいくと、遺族の方やいろんな人がメッセージを書いていた。
いつの間にか泣いていた。
声が出るくらい涙が出て、鼻水もでた。
泣きそうだという気配もなく、涙がでてきた。
それから急にしんどくなって、すぐ話題を変えて、カフェに行った。



私は閉じ込めてきたみたいだ。
当時小学三年生。
私の見たもの。


暗闇でゆれている家。
叫ぶお父さん。
私と妹に多いかぶさるお父さんとお母さん。
お気に入りのふわふわのムートンスリッパを履かされて、
「このまま外に出ていいのかな?」と思いながら暗闇を進み、1階へ。
お父さんがガラスを玄関に落としている。下駄箱の上を歩くんだ。
「あれ?ここには金魚の水槽があったはずなのに。」
お父さんがこなごなになった水槽を床に落としていた。
大切にしていたお魚が玄関にちらばっている。
お父さんがドアをたたいたけどあかなくて、どんどん!!と何回もやって外に出た。
寒かったんだろうけど、私の中で寒いという思い出はない。
頭から血を流した友達のお母さん。
どうやって20分かけて小学校の体育館まで歩いたのか覚えていない。
途中で家が全壊した幼なじみに会った。「ズボンの上にスカートはいてる」って思った。
飼っていたシマリスが心配だった。
次の日はドーナツの調理実習だった事が悔やまれた。そう言えば玄関に準備置いてたな。
何度も余震がくる。体育館のいろんなものが揺れている。
夜の事は何も覚えていない。
いつだったかおにぎりが運ばれてきた。
近所のおばちゃんが「おにぎりはこどもに!」と大声で叫んでいて、
私は大人の分までもらった。大人はたくわんだけだった。
翌日は父の誕生日で、体育館のひとがみんな「おめでとう!」と祝ってくれた。
幼稚園に避難してから、幼稚園のトイレが小さすぎてびっくりした。
何度もみんなでお水をもらいに行った。楽しかった。
アニメのレイアースを、友達のお父さんの小さいテレビで見た。
ざーーーっと言っていて映像が見えにくい。
そしたら余震が来て、続きがみれなかった。それからレイアースは見なくなった。
教会に通っていたから、その後も教会に通っていた。
牧師さんが聖書が顔に落ちてきて、助かったという話をしてくれた。
クーポンが配られてお買い物をしたりした。
家の窓ガラスはしばらく段ボールとガムテープだった。
シマリスが1匹逃げてしまったけど、近くのお山に逃げたから幸せだね、と思う事にした。
黙祷を捧げることも多かったけど、誰も大声で泣いたりしなかった。
みんな大人だった。

震災のことは口にしないようになった。

中学でも、高校でも、大学でも。
社会人になって、西宮出身というと「震災たいへんだったでしょ〜」と言われたけど、
言われて、「そうなんですよ〜」と言うたびにすごくしんどくなった。
もう思い出したくなかった。
正直忘れたかったんだと思う。

それでも3.11のあとは何度もテレビに出てきて
その度に見なくちゃ、と思った。
26歳なんだし、向き合わなくちゃとも思った。

でも今でも怖い。
今日も怖かった。
私は、自分が震災が怖くてたまらなくて、今でも陸橋を歩くのが怖くて、
地震の再現VTRは配慮してほしいと思っていて、
昨日の事のように思い出そうと思えば思い出せる。
今日「がんばって!」と書かれたメッセージをみて「がんばれ!」は酷なのかな、、と思った。
「支えたい」と言われたら一緒に頑張ってほしいと思うかな。
「がんばって」よりも「泣いていいよ」が必要なときがあるんじゃないかな。
もういやだ、二度とこんな目に遭いたくない、そう叫ぶチャンスが必要なんじゃないかな。

私は今でも被災者だった。

肌で感じてしまったことは、映像を通してでもよみがえる。
一度も気持ちを吐き出す場所がなかった。

なんだか、3.11以降、やっと、
無理しなくていいんだよって自分に言える気がした。
震災のことを思い切り泣いて、吐き出して、もう嫌なんだと言う事ができたら、
少し前に進めるんだろうか。

震災の映像を見ると、今でも地面が揺れているような気がしてしまう。
それを3.11があって、すべて自覚してしまったんだと、今日やっと気付きました。


動いて活動している人たちに本当に感謝したいと思った。
顔を合わせられる場所があること、みんなで支え合える場所があること、
想いを重ねる場所があること。
本当に大切なこと。
私はストップしているかもしれないけど、少しずつゆっくり進んで行きたいとおもう。


おしまい。