ぼくの見ている世界

感じたことを記録として書いていきます。

元パートナーの卵巣嚢腫のぼくサイドの話

元パートナーは2015年、卵巣嚢腫になった。

元パートナーの記事はこちら

http://blog.livedoor.jp/fuku0206_hiro/archives/45819625.html

 

今回妹の手術を側で見ていて、ぼくは元パートナーの手術のときどれだけ心理的負担が大きかったのかに気づいたので記しておきたい。

 

まず、元パートナーは身体は女性、性自認は男性よりのトランスジェンダー。見た目は男の服を着ていたら男性に見えなくもないが、声は完全に女性。今年別れてしまったけれど、以下パートナーと書くことにする。

 

ぼくたちは同性カップルとして約6年付き合い、約3年間一緒に暮らした。付き合って一ヶ月でぼくの両親に紹介し、実家にもパートナーを呼ぶほどだった。

ぼくたちは婚姻届けを出していない、同性の「事実婚」カップルだった。

 

パートナーの母親、妹、姉にはぼくの存在は知らせていた。「わかさんという人と同居しているらしい」と。

 

パートナーの母親はカミングアウトを受けても父親には話したがらなかった。母親とパートナーとの関係性もあり、ぼくは約5年間パートナーの母親に会ったことはなかった。

 

ただ、何かあったときのために連絡先を伝えていた。

 

何かあったときのために。

 

そして2015年、パートナーの卵巣嚢腫が発覚した。

 

先ほど書いたようにパートナーはトランスジェンダー。婦人科は大きなハードルだった。女性的な名前をフルネームで呼ばれること、女性器の存在を実感すること、女性しかいないはずの空間に足を運ぶこと。卵巣嚢腫が発覚するまで婦人科にいかなかったことを誰も責めることはできない。

 

ある日、うずくまったパートナーは腹痛を訴えた。近くの総合病院で婦人科を紹介され、腫瘍が見つかった。

 

入院までの一週間、ぼくは必死に準備した。ユニセックスのパジャマを探し、インターネットで注文した。女性しかいない病棟でパートナーが少しでも心穏やかに過ごせるように、声かけをし、ぼくはいつでも駆けつけられるように心の準備をした。

 

入院前日、さいごのごはんを食べようと近くの居酒屋いった。パートナーは自分のことで頭がいっぱいで、父親へのカミングアウトを渋っていた。ぼくは泣いた。ほかのお客さんの目もはばからず泣いた。「どうしてカミングアウトしてくれないの?!」もしカミングアウトしていなかったら、集中治療室に入れてもらえないかもしれない。もし父親が反対したら病院にも入らせてもらえないかもしれない。万が一のことがあったときにぼくはパートナーのお葬式にもいけない。

 

パートナーは泣きながら「ごめん」と言って、その場で父親にメールした。翌朝パートナーの母親からメールがきた。「どうしてお父さんに話したの」それだけ入力されたメールを見て凍りついた。

 

きっと母親は1人で何年もパートナーのカミングアウトを抱えて生きてきたのだ。父親に反対されて居場所を失うのはぼくたちではない。母親もカミングアウトのリスクを抱えていたのだ。

 

そして入院当日、かなり早めに着いたのに、母親は病院の前で1人で立っていた。ぼくは笑顔を必死でつくった。必死で「感じのいい人」を作った。パートナーの体調の前にぼくたちの前にカミングアウトの壁がたちはだかった。

 

パートナーが主治医に渡すための問診票を看護士さんに渡した。ありえないほどびっしりと「その他」欄に埋め尽くされた文字。入院中の呼称について、女性らしい色のものがあれば極力避けたいということ、ぼくについて。万が一のことがあったら「家族」同等に扱ってほしいということ。A4半分くらい欄外に書いてあった。母親にも話したことのない不安要素について、母親の目の前で看護士が読み上げた。その場が凍りついたようだった。

 

そしてすぐ、パートナーは看護士さんによばれ、どこかへいってしまった。1時間ほど、ぼくは無機質な病室で空を眺めながら「いい天気ですね」とか「晴れてよかったですね」とかいいながら、表情の固いままのパートナーの母親と時間をつぶした。肩が凝りすぎておかしくなりそうだった。

 

そして、パートナーを残して、ぼくは帰った。

パートナーは母親に父親あての手紙を託したらしかった。

 

手術当日。

8:30に病院にいくと病室に手術の準備を終えた父親と母親とパートナーがいた。そのわずか15分後、パートナーは手術室へ向かい、それから4時間以上の時間、ぼくはパートナーの両親と3人で過ごすことになった。

 

 待合室で目の前にすわるパートナーの両親。

お茶を飲んでも話ができない。

全員が黙っている。

とにかく笑顔で、「本当に心配ですね」と声をかけた瞬間、母親が泣いた。「もっと早く気づいてやりたかった」そして父親は上向き加減で「未来志向で考えます」と三回繰り返した。母親は泣いていた。「もっと早く気づいてやりたかった」それは卵巣嚢腫のことだけではないことがわかった。パートナーがトランスジェンダーで幼少期から苦しんできたこと、それが手紙に綴られていたのだろう。

「わかさんありがとう」そんな感じの言葉をかけてくださったと記憶している。

そしてぼくも涙をこらえながら話した。「ヒロさんはご両親のこととっても大切だといつも話してくれていましたよ。」必死だった。どうすれば、ぼくの存在が認められ、かつ両親の心の負担が減るのか。必死だった。ゆっくりとしたトーンで、「本当にヒロさんに何度も助けられました。ありがとうございます。」「ご両親にお会いできて嬉しいです」ぼくは「男でも女でもない変な奴だと思われていないだろうか」「追い出されたりしないだろうか」不安で不安でたまらなかった。

 

これはカミングアウトのためにセッティングされた場所ではない。

 

手術中の会話だ。

手術の心配だけでも気がおかしくなりそうなのに、それ以上にぼくはパートナーの両親を目の前に気が狂いそうだった。

 

何度も父親の「未来志向で考えます」という言葉がこだました。

 

もし父親が反対したら。父親が反対するのを恐れた母親がぼくを入れてくれなかったら。考えるだけでゾッとした。

 

何度も看護士から「ご家族の方ですか?」という声かけがなされた。その度にぼくは堂々としていられなくなり、心許ないまま、「はい」とも言えず両親の後ろに隠れた。

 

幸い、手術後の説明も両親の計らいで同席させてもらうことができた。

母親は父親の反応を見てだいぶん心が和らいだようだった。

 

入院中のお見舞いのときも、両親が来ている時間をできるだけ避けたいと思った。でも毎日お見舞いに行っていたので、時間が重なることもあった。その度にパートナーと母親は泣きながら対面していた。20年以上抱えていた想いをティッシュケースをからにするほど泣きながら、パートナーと母親は話し合っていた。

 

ぼくはそこへ入ることもできない、ただ、時が過ぎるのを待っていた。お見舞いにいっても、ぼくは「友人」くらいに見えただろう。「○○さんのパートナーさんですね」とか言われることもなく入院とそのお見舞いは終わった。

 

妹の手術後を妹の夫とぼくの両親と見守り続けて、初めて、異性愛カップルの「当たり前」を見ることになった。「当たり前」にお見舞いに行く日をセッティングする両親と夫。看護士さんが見る目線の先に必ず妹の夫がいること。妹の夫の両親からはお守りが届くこと。今後のお見舞いは交代で行こうと話し合われる会話。妹のパジャマは当たり前のように女性用のピンクで、それが適切であること。

 

妹の手術がおわり、ホッとしたと同時にそういった「当たり前」になされた全てのことがぼくの過去をフラッシュバックさせた。

 

2年経ったいま、まざまざと感じる。ぼくは辛かった。誰かに泣き叫びながら聞いてもらいたいくらい辛かった。両親へのカミングアウトとトランスジェンダーのパートナーの入院に1人で立ち向かったのだ。

 

すごいね。

えらいね。

大変だったね。

 

そんな言葉で終わらせられないほどの困難。壁だった。

 

ぼくたちは別れる時こう話した。「異性愛カップルが20年ほどで経験する壁を6年でかなり経験して疲れてしまったな」と。同性カップルがこの異性愛社会でカップルであり続けるのは本当に難しい。それは当人の努力不足で片付けられないことなのだ。

 

いま、まざまざと実感している。

 

ぼくの看病はだれがしてくれるのか。

 

あぁ、不安だ。その不安はいつかやってくる未来の不安ではなく、たったいま自分の自尊心や安心感をゆるがすリアルタイムの「不安」なのだ。

いつか壁にぶちあたるかもしれない、その不安は、たったいま不安であることなんです。

いまの不安は未来を見えにくくし、いまの自分を蝕む。

 

よく、「いま大丈夫だからいい」 とか「理解してもらえてるからいい」とか言われるけど、そうではない。

未来が描けないということは、現状が不安定だということ。どう生きていけばいいかわからないということ。ロールモデルがないということ。それは、いま時点の命の話であるということ。