ぼくの見ている世界

Waka Kobayashi/感じたことを記録として書いていきます。

グループ展最終日を迎えて

今年あたま、妹にエクストララージサイズの脳腫瘍が見つかり、
ぼくは6年間連れ添ったパートナーとお別れした。
2月くらいからのことは記憶が曖昧だ。
去年4月鬱がひどくなり、ひとりで出歩くことができない日々が続いた。

グループ展に来られた方に聞かれておどろいた質問がある。

お父さんは作家さんだからさぞかしたくさんアドバイスをもらえていい環境ですね、と。
うまれてから今まで作品づくりにおいて親にアドバイスなど受けたことはない。
自由に描き、気づいたらそれはコラージュになり、音楽になった。

ぼくという一人称はなんとなく、グループ展をしながら
「ぼく」から「僕」という表記にかわっていった。

「長女」と紹介されること、
「姉」と紹介されること、
「娘」と紹介されること、
相当な違和感と、嫌悪感がある中、僕はプロフィールにセクシュアリティについて書くことでなんとか、バランスを維持しようとした。

きた人に読んでいただくために書いた紙を以下に引用しておく。

「ぼくにとって作品は日記だ
日記を人に見せるのはとても恥ずかしいことです」

ぼくの作品はすべて日記です

ただ、他の人と形が違うだけ

感じたこと、驚いたこと、知ったこと、それを記録したい、残したい、そう思うより前に

ペンを持ったり
捨てられるはずだったものを貼りつけたり
カメラを通して残したり
つなぎあわせて動画にしたり
言葉にしたり
そんな風に生きてきました

それがぼくにとっては
「当たり前」の生き方で
他の人にとっては
そうではないことに
31歳まで知りませんでした
それが「アート」であるとか「コラージュ」という名前のつくものだという認識もありませんでした

今年、初めてギターというものに出会い、オンガクに出会いました
友人の詞にパソコンで音をつけました
リアルなオンガクに出会うため、1人でライブハウスに行くようになりました
ギターのコードに言葉を並べてみました

自分のコンプレックスである歌をする日がくるなんて、自分が一番びっくりしています

ぼくの制作物は生まれたときから
ノンフィクション

目の前に生きているもの
目の前から消えていくもの
そのときの感情、心情、動揺、
ある日は発作のように止まらなくなり
ぼくを困らせるものでもあります

リアルでないものなんてない
生き抜いた時間
怒り、哀しみ、絶望感
収まりきらない感情の放出

それが2017年11月、どんな形になっているか自分にもわかりません

ぼくの見ている世界を
ぼくの生きてきた証に
少し触れてもらえたら

ぼくは
生きている実感がわくのかも
しれません

2017.10.12
Waka Kobayashi

2017年11月12日最終日。
僕はパソコンの前に座り、言葉を並べてみる。
これはツイッターで記録のためにつぶやいておいたものだ。

  • 個性的という無個性な言葉
  • 画家の子どもだからではなかった。何歳になってもワクワクを追求する親から生まれたからだった
  • ぼくの作品は、作品になろうとして生まれたのではなく、ラクガキやガラクタの集まり
  • ぼくの作品を見て、心動いたと言ってくれた人がいた。伝わったと言ってくれた人がいた。何百人にすてきですねといわれるより、数人が心震える方がぼくは嬉しい、感動する
  • ただ、そこにあった。つなぎ合わされて、一緒になるはずもなかったものが共にいる。そこには違いがあり、同じがあり、変化があり、なにかが生まれた
  • 予想なんてしていなかったものが生まれた
  • ぼくの作品たちは、ゴミ箱に行く前に人に見てもらって、嬉しそうだった。なぜなら、それらはぼく自身だからだ
  • 画家の親からアドバイスを受けていたのでしょうと問われ驚いた。アドバイスを受けていなかったから、ぼくらはこんな風に自由に育ったのだ
  • 魅せようと思って作ったものは、結局人目を気にしてるんだ
  • どう人の目気にせず作れるかが勝負
  • 講演もアートもつながっている。ぼくの生きた証。ぼくの生き方。それをまっすぐに表現する。少しの工夫を忘れずに
  • こびない人間でいたい
  • 自分の作品を見て泣いた人がいた
  • ひとりじゃなかった。たくさんの人が、伝わったと言って泣いてくれた
  • 何人かの人が、わかの作品を見て共感して泣いたり、座り込んで見たりして言葉にならないけど、よかったと言って帰っていった
  • 死ねないのなら見せようと思ったのです
  • 生きたいんじゃなくて、死ねないから生きてると言った友達のことばがしっくりきた
  • 死ねなかったのなら、生きるしかない。生きるなら自分を殺したくなかった。自分を殺すくらいなら消えたかった。だから僕は死なずに、自分を殺さないで生きることにした
  • 自分が消えていく瞬間をイメージし続けても、消えてくれなくて、涙が止まらなかった
  • 作品を出す上でさいごの壁は親だった。親の顔を気にしている間は本当に作りたいものは作れないと思った。だから僕はさらけ出すことにしたんだ。親が死ぬのを待っていたら、したいことができない

昨日ふとある日のことを思い出して記事に書いた。
「死ぬくらいならのアート」
ofukumaru.hatenablog.com

そう、僕は死なずに生きた証を残すために日記のように記録として作品を作り続けてきたのだ。

カメラにはまった中学校。
僕は少しでも生きている実感がほしくて写真を撮った。
高校でもそれは続き、楽しんでいたという記録で安心したくて写真を何百枚も撮った。
そしてそれを大好きな人が喜んでくれるからコラージュして、満足した。
そして大学ではコラージュの幅が広がり、色紙代わりにコラージュを作るようになった。友人たちの言葉を並べて一つの箱を何個か作り何人かに渡した。
そして映像にはまった。自分が撮った写真は、自分が「見たもの」。それを大切な言葉とともに「コラージュ」する。映像は写真と言葉のコラージュだった。
卒業して、僕はセクシュアルマイノリティとしての現実を知る。
突発性難聴になり、パワハラに遭い、友人を失い、パートナーと数々の山を超えなければならなかった。
そして鬱になった。
山を超えながら、僕はこんどは言葉と出会った。目の前の知らない人たちに自分の言葉と写真で自分の想いを伝えるようになった。ポスタープレゼンや講演活動という形で10年間続けた。
レインボーグッズという形で自分の想いを優しい生き物たちに変えて作ったり、イラストを書いて想いを伝えるツールにしていた。
でももう立てなくなった時、僕の作品は姿を変えたように思う。
そんな優しさや思いやりなんて言葉で自分の感情を伝えられなかった。
気づいたら家にたくさんのコラージュや言葉の集まりがあり、時にそれは泣いていて、必死に「生きたい」といっていた。

今年2月、僕は身元整理をした。
そして警察がきて、親がきた。

もう自分が限界にいることを隠せなくなった。
死ねないのなら、作りたいものを作ってから死んだ方がいい。そう思った。
親の目を気にしていたら、作りたいものが作れないなら、恥なんて捨てようと思った。

グループ展最終日を迎えて、僕の作品は自分の知らなかった父の生徒さんや友人、妹の友人にも見てもらえた。そして知っている人も見に来てくれた。

僕は、生きているうちにこの作品を見てもらうことができたのだと思った。

僕は、もう作品を作らないかもしれない。
もしかしたら。
それでもいいのかもしれない。また作りたくなったら、作るんだろう。
いまはただ、グループ展が終わっていく、実感がわかない。

身体中にフェイタスを貼らないといけないくらいまで、体力を使うなんて思いもしなかった。そう、ぼくはフェイタスを貼って、今、生きています。

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